春といえば桜ですが、今年はステイホームが呼びかけられ、お花見することができませんでした。その代わりに家族で桜並木を散歩しました。
その時に「桜が散っていてきれいだね」と娘に話していて、「あれ?」と思ったんです。「桜は枯れるではなくて散るって言うのはどうしてだろう?」と。
娘に聞かれても答えられないのは困るので、桜を含めた8つの花が終わるときの表現とその由来について調べました!
なぜ桜は「散る」と表現するの?
桜は花びらが1枚ずつ離れていきますよね。そのようすから散ると表されます。例えば、小倉百人一首の紀友則の一首では桜についてこう詠まれています。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」
これは、「日の光がこんなにものどかな春の日に、どうして桜の花だけは散っていってしまうのだろうか」という意味で詠まれた一首です。華やかに咲いていた桜の花が儚く散るようすが、この表現でよく分かります。このとおり、古くから桜は散ると表されます。
そう考えると、受験で志望校に落ちてしまうことを「サクラ散る」と表しているのも、儚く散るようすから例えられたのだと想像できます。また、桜を題材にしたアーティストの歌詞でもよく出てきます。
このように桜が散るという言葉は、桜の最後を表す日本語の美しい表現方法なのです。実はこの表現が花の種類によって違います。
桜以外の他の花の最後の表現方法は?
では、桜以外の他の花の最後はどのように表現されるものなのでしょうか?7つご紹介します。
梅、萩は「こぼれる」
梅や萩は桜と同様に花びらが散っていきますが、桜はひらひらと舞い落ちるのに対し、梅はそのまま落ちるように花びらがなくなるため、こぼれると表されます。
また、そのこぼれた梅の花びらが木の周りの地面いっぱいに重なったようすが「こぼれ梅」と呼ばれます。
さらにもう一つ、みりんの粕もまるで梅の花びらのように見えることから、こちらも「こぼれ梅」と呼ばれます。
菊は「舞う」
菊は、花の重みで花びらが垂れさがります。その花が風にそよいでいるようすが、まるでぱらぱらと舞うように見えることから、舞うと表されます。
朝顔や菖蒲(しょうぶ)は「しぼむ」
小学生のとき、朝顔を育てる授業がありませんでしたか?その時の日記で朝顔がしぼんだ時間を書くという課題があったという方もいるのではないでしょうか。
朝顔や菖蒲は、花びらが閉じていきます。その様子からしぼむと表されます。
また、朝顔や菖蒲は、花が咲いてから1日で花が終わってしまう花です。朝になると花が咲いて、夕方にはしぼんでしまうという、なんだか切ない花ですね。
椿は「落ちる」
椿は花首から落下して花が終わります。この様子から落ちると表されます。
道端に落ちている椿を目にしたことがありますよね。またそのようすから不吉とされ、武士の家には植えられなかったそうです。また、詩でも落ちると表されます。
「落したか 落ちたか 路の椿かな」
これは正岡子規の詩です。これも椿が落ちると詠んでいます。
牡丹(ぼたん)や芍薬(しゃくやく)は「崩れる」
牡丹は1枚ずつ花びらが離れていきますが、それが一気に起こるため、次の日には花びらが全部落ちていることがあります。芍薬は、椿と同じように花ごと落ちます。
この2つの花は、ごく短い間に花の形が失われることから崩れると表されます。
紫陽花(あじさい)は「しがみつく」
紫陽花の花は、花が終わったのでは?と感じても、いつまでも花がついたままです。そのようすから、しがみつくと表されます。
しかしこの状態のままだと、翌年、花が咲かなくなってしまいます。しっかりと剪定してあげることで、翌年もきれいな紫陽花の花が咲くのです。
雪柳は「ふぶく」
雪柳は、しだれた枝に咲いたたくさんの白い花がまるで雪がふぶくように散っていくようすから、ふぶくと表されます。桜が咲く時期にふぶく雪柳、とてもきれいな情景が浮かびますね。
さいごに
桜が散るなどの花の最後の表現は、私たちがごく自然に当たり前のように使っていました。しかし、そうやって表現されるようになった由来を調べてみると、日本人の感性によってそれぞれの花に合った表現がされるようになったのです。
今回調べてみて、花の楽しみ方が1つ増えました。日本語の景色が見えるような美しい表現を大切にして娘にも伝えていきたいです。
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